普段自分語りなど、ほとんどしないこのブログですが、父が亡くなったということもあり

故人のことを忘れないためにも、エッセイ調というか、まぁとりとめもなく思い出語りをしたいと思います。

自分の心の整理も兼ねるエントリーなので、大半の人は面白くない内容かと思いますので、気が向いた人だけ読んでいただければと思います。


まず今回の父の逝去ですが、心の準備はしていたのでショックというかそこまで大きく引きずってはおりません。

経緯をかんたんに言いますと、まず去年の1月だったかに検査を受けてガンが発覚しまして

そこから1年と3ヶ月ほどの闘病期間を経ての往生でしたので、家族としては十分に準備はできていました。

ガンの兆候自体は、一昨年の年末頃からあり、本人もおそらくそうだろうという確信があり

検査は、ほぼその確信を確かめるものでしたので、ガンと診断されても本人含めショックはあまり受けていなかったように思います。

来たるべきときが来たのだな…と。

ただ、本来であればその検査をもっと早くすべきだったのですが、コロナの影響でなかなか

予約を取るのが難しく、診断確定と、それに伴う治療開始が少し遅れてしまったのは今でも心残りではあります。

診断された時点では、手術では切り取るのが難しいところ(リンパ節)に転移しており

具体的に言うと、前立腺がんなのですが、進行は遅いながらも完治は見込めないという状況にありました。

結果、進行を遅らせることがメインの薬物療法を取ることとなりましたが、どうにも本人にあう薬が

見つからず、体調不良を引き起こしてしまったり、また結果としても何もしないよりは

若干マシというレベルの結果しか出なかったという状況でありました。


前立腺がんは進行が遅いガンということで、劇的に悪くなるということはありませんでしたが

徐々に体調を悪化させていき、最終的に去年の後半から抗がん剤治療を始めました。

しかし、そちらもどうやら父の身体には合わなかったようで、進行自体は若干止まったものの

今度は白血球が副作用により異常減少してしまい、強制的に入院を余儀なくされました。

それが、2回ほどあって去年の年末からいよいよ、医者も打つ手がないということで

あとは、本人の苦痛を和らげながら、死が来るのを待つという方針に切り替わりました。

俗に言う緩和ケアということですね。

12月のクリスマスの頃に医者から宣告された余命は、あと2ヶ月前後程度という予測でした。


去年の年末からほぼ病院に入院し、自宅に帰ってくることはありませんでしたが

唯一大晦日と元旦(元日ではなく元旦)に、家に帰ることを許されました。

年が明けてのおせちなどを家族で食べて、それが家での最後の晩餐となりました。

もうこのときは、薬の副作用で全身の筋肉が非常に衰えており、自力で立てない状況にまでなっていました。

私が家にいたので、立ち上がる時だけは介護のように手助けをしていましたが

一度立てれば、なんとか歩けるほどの筋力は残ってはおりました。

本来であれば、元日の17時に病院に戻る約束での一時帰宅だったのですが、御存知の通り

1月1日には、能登半島沖地震が発生し、新潟市内も震度5強と強い揺れを感じました。

集合住宅の我が家は、その地震の影響でエレベーターが止まってしまったため

足の弱った父が階段を降りれるはずもなく、その事情を説明したところ、1日だけ病院に戻る日が延びたのです。

結果、次の1月2日の朝に病院に戻り、そこからの帰宅は叶わない状況で今回の往生となりました。


最初は、まだ意識もはっきりとあり、病院は退屈だなどという愚痴を母に電話で漏らしていたこともあります。

ですが、全体的に見れば、ほぼ手のかからなかった患者であったのではないかと思います。

亡くなる一ヶ月前ぐらいには、呂律もほぼ回らなくなり、お見舞いにいっても何を言っているのか

はっきりとした意思疎通ができない状態になり、本人ももどかしい状況であったのは間違いないと思います。

時々、お見舞いに行った私達に声を荒らげることがありました。

しかし、全体的にはほぼ家族も病院も困らせることはなく、そういう面ですごい父だったと今になって思います。


前に書いた通り、12月終わりの頃に2ヶ月前後という予測でしたので

本来であれば、2月の終わり頃が、死期の予想だったわけですが、そこから2ヶ月ほど更に生きてくれました。

タイミング的には大型連休に入った直後ということで、ちょうど自分も実家に帰っていたことで

病院からの連絡にもすぐに駆けつけることができました。

ただ、残念ながら臨終の際には立ち会えず到着した時にはすでに息を引き取っていました。

4月28日が命日ですが、その2日前に母が見舞いに行っており、喋れない状態で呼吸は苦しそうだったとのことですが

その状態からあまり長く苦しまずに逝けたのは本人としては幸せだったのかなと思います。


葬儀については、私の家族と兄夫婦家族のみの少人数家族葬ということでこじんまりとやりました。

葬式など、自分がメインで動いて準備することなど一生に数回しかないわけで

全く知らないことで、不安も大きかったですが、幸い生前から亡くなった時にどうすればいいかを

相談できる葬儀屋が家の近くにあり、その点は案外戸惑うことなくできたのかなと思います。

葬儀場もその相談した場所で、そのまま依頼して、すぐに式場を押さえることができましたし

最近火葬が多く、場合によってはそれも待たされる的な話が世間一般であったので

滞りなく火葬ができるかも、懸念材料でしたが、そちらも葬儀の日に行うことができる空き状況で

菩提寺の住職も、予定が空いていて全く滞ることなく式ができたのは運が良かったと言えます。

最後に入院していた病院でも、キレイにエンゼルケアをしてくれて、安らかな死に顔であったと思います。

火葬場で遺体を焼いた時に、係の人も驚くぐらいキレイに骨が残っており、喉仏の骨が

ほぼ原型を残していたという状況を、驚かれつつも説明していただきました。

喉仏というのは、骨の形が仏様のように見えることからその名がついているということだそうですね。


葬式が終わった今は、様々な事務手続きがまだまだ残っており

慌ただしい日々はまだしばらく続きますが、実は個人的にも先に書いた通り

今回の父の逝去は今の時点ではそこまで大きなショックではないのです。

薄情と言われるかもしれませんが、自分自身が大病で一度、本当に生きるか死ぬかの瀬戸際にまで

陥ったことがあり、今自分が生きているのは運が良かっただけということ実体験をしているからかもしれません。

死については、人間誰しも必ず平等に、いつかは訪れるものなので、順番通り(年齢的な意味で)その時が来ただけだという想いがあるのです。

母はまだ存命で、まだ逝くのは先になると思いますが、その時も自分は割と淡々と対応しそうな気がします。

両親が亡くなれば、あとは次は兄か私の番かとなるだけなので、順繰りにその時が来るだけという

ある意味達観した?死生観になっているのかもしれません。

父が先に逝っただけで、自分もいずれ後を追うだけ…と考えているので、人間の時間としてはそれなりですが

全体の流れとしては、ごくごく自然の流れと思っていますので、いつかは自分も同じ道を辿るだけと

今後の人生を生きていくうえで、気負わずやっていくのではないかなと個人的には思っています。

もちろん、このあと時間が経ってふっと思い出して寂しくなることがあるのでしょうけれどね。


父が亡くなった経緯はこんなところですが、最後にこのブログ的な父と私の思い出話も少しだけするとしましょう。

まず、ゲームの思い出については、父が買ってきたファミコン。

まあこれが、自分の人生の大半を占めるゲームという趣味に走らせるそもそもの原因でありました。

ファミコンが発売したのは1983年でしたが、その翌年ぐらいには父がファミコンを買ってきたような記憶があります。

最初に購入したソフトは、未だ忘れることがない、ナムコのディグダグ。

家のテレビに繋いで、ゲーム画面がテレビに映った時の記憶は、当時3歳か4歳程度のはずですが

なんとなく、おぼろげながらも今でも私の記憶に残っています。要は筋金入りということです(笑)

また、ぶっちゃけるとファミコンを買ってきたにもかかわらず父はほとんどゲームについては、興味を示していない人でした。

ただ、新しもの好きで、ミーハーという側面があり、ファミコンを割と早い段階で買ってきたのは

父のそういう嗜好が現れていたのだと思います。子供に買うというよりは自分の好奇心を満たしたかったのかもしれません。


そんな父が、家庭用のゲームで唯一それなりにやっていたのをみたゲームは

ソフトとしては3番目に買った(2番めはF-1レース)レッキングクルーでありました。

マリオが解体工となって、ハンマーで各ステージのオブジェクトを壊していく

アクションパズルといったジャンルのゲームですが、そのパズル的な要素に惹かれていたようです。

特定の壁を順番に壊していくと出るM・A・R・I・O(Oまで出すと1UP?だったかな)の

隠し要素を楽しんで探していたような記憶があります。


その後、ソフトについては1年に1~2本のペースで買ってもらい、初代ファミスタなど

兄弟喧嘩に発展したゲームをプレイしたり、ぼうけんのしょの消える音楽が

あまりにも凶悪すぎることから、兄にゲームを起動してもらうことを常にお願いしていた

ドラゴンクエスト3、例によって兄弟でこぞってプレイしたスーパーマリオブラザーズなどの

思い出深いソフトを何本も買ってもらいました。

1989年には、ゲームボーイ本体を今は亡き日野屋玩具古町店(現COMG運営)で買ってくれたり

スーファミも発売から少しして購入してもらいました(本体より先にソフトのF-ZEROのほうを手に入れていたのは内緒w)

PS以降になると、お年玉やバイトで稼いだお金で買うなど、父がソフト購入に関わることはなくなりましたが

あまりにも自分がゲームをやりすぎるので、色々と心配をさせてしまったのは今でも申し訳なく思っています。

ちなみに父は、家庭用のゲームはレッキングクルー以降一切やっていませんが、Windowsに標準搭載の

ゲームであるソリティアやフリーセルは恐ろしいほどにやっており、時に勝率がかなり高くなったと

私にもさりげなく自慢していたことを、今でも覚えております。


とまぁ、とりとめもなく4000文字ぐらいの長文エントリーになってしまいましたが

もちろん、思い出はこんなところに書ききれるものでは到底なく、紙幅の関係上

これぐらいで終わりにしておきますが、43年間、不肖の息子を育ててくれた父には感謝の念が絶えません。

私が後を追うのは、あと何年先になるかは誰もわかりませんが、いずれはそちらに向かいますので

のんびりと、大好きな音楽を聴きながら再会を心待ちにしていただければとメッセージを送ります。合掌。